「当たり前」の反対は「ありがとう」|身近に感じる当たり前を感謝に

あなたには当たり前に感じるものがありますか?
家族や恋人、友人、そして人だけではなく寝る場所や食事、衣服など、すべて日常生活において当たり前と感じる要素の一つでしょう。
でも、実は当たり前と感じることが多いほど幸せなことって知ってましたか?
当たり前と感じること=いつも自分の近くに存在しているもの
悲しい話ですが、人は環境が変わり時が経つと、この当たり前も徐々に変化していきます。
それでもあなたにとって「変わらない当たり前」とはなんでしょうか?
今回はそんな「変わらない当たり前」の大切さを淡々と書いていきたいと思います。
1.最も身近にいる変わらない当たり前は「家族」

そう。家族です。
恐らく家族がいない人は少ないと思います。
あなたが困ったとき、必ず助けてくれたり、話しを聞いてくれる存在は家族ではないでしょうか?
あなたが生まれて最初に関わる人は家族ではないでしょうか?
家族って不思議ですよね。他人でもあり、他人じゃない。
そんな家族に支えられてあなたはきっとこの世に生きているのだと思います。
最近ニュースで自分の子供を殺したり、自分のストレス発散のために虐待したり、罵ったりする人が増えています。こういう人は例外ですが、その他の人はなんだかんだ、五体満足でしっかりと生きていると思います。
両親や兄弟、姉妹と揉めたりしますが、なんだかんだ帰る場所があるっていいことですね。
僕の家族の半分はいなくなりました。
父、弟は亡くなり、兄は婿養子で縁を切られ、母は再婚でもう一人の弟は母の再婚相手の姓になりました。
実家は引っ越しをして新しい家になってしまって、実家に帰るとすっかり他人の家にお邪魔している感じになりました。
でも僕にはまだ元気に生きている母と弟がいる。
家族の半分はいなくなってしまったから、今、元気で生きている存在に感謝ができる。
人は生きていると日々の忙しさから感謝を忘れてしまう。
だからこそ、忙しいときや疲れているときこそ感謝が必要なんですよね。
自分だけが辛いわけではない。どんな窮地にあっても他人を思うこと。そんな些細なことが人生では大切になってきますね。
2.長年の友人や仲間

友人関係や仲間も長年経つと当たり前だと感じることがあるでしょう。
ところで皆さんは友人と仲間の違いってご存知でしょうか?
僕の解釈では下記になります。
・友人⇒一緒に感情を共有する時間がある存在
・仲間⇒同じ目標を掲げ一緒に目標に向かい切磋琢磨できる存在
まあ、ざっくり言うとこんな感じになりますね。
皆さん、考えてみてください。
感情を共有し合う他人、同じ目標を歩める他人。
これは当たり前だと思いますか?
答えはもちろんNOです。
世界の人口が70億人いたとして、同じ言語(日本語)を扱えるのが約1億3000万人。
その中で一人一人が違う時間や違う環境にいるなかで、感情の共有ができる人はごく一握りです。
さらに言えば同じ目標を掲げ一緒に同じ目標に進める関係はもっと極少です。
人間関係に当たり前などありません。
一つ一つの環境や時間、タイミングの一致で出会えた人たちです。
悪いこともいいこともあると思いますが、一緒にいることが「当たり前」ではなく出会えた奇跡に「感謝」してみてはいかがでしょうか?
3.好きという感情の共有ができた恋人

最近、恋人がいて当たり前な環境にいませんか?
一緒にいて疲れたり、一人でいたくなったり。
もしくは喧嘩したり、相手に嫌気がさしたり、思わず気持ちが浮ついたり。
当たり前の存在になりすぎて愛情表現をまったくしなくなったり。
言わないでも相手に伝わると思ってコミュニケーションを全く取らなかったり。
でもね、お互いの好きを共有できる人間なんて滅多にいないことを感じてほしい。
もし、あなたに恋人がいるのであれば相手に上下の価値をつけないでほしい。
仕事の方が大切とか、友人の方が大切とか。
確かに区別しないと生きれないときだってあるかもしれない。
でも、あなたの中にある好きという感情は当たり前にあるものではなく、その好きという感情でつながり合った関係も当たり前にあるものではないのです。
たとえ、お互い嫌なことがあったとしても特別な感情の先でつながった特別な関係に「当たり前」と思うのではなく「ありがとう」を一言言ってみよう。
4.当たり前にある命は当たり前ではない

今、胸に手を当ててみてください。
心臓の音がドクドク聞こえるでしょう。
朝からいいことがあった人は「幸せ」と感じるし、つらいことがあった人は「辛い」と感じる。
生きていれば幸せなこともあるし、つらいことや悲しいこともある。
楽しいことも、面白いことも、イライラすることも、嫉妬することもある。
いろんなことを感じることができる。
それが生きること。
あなたは会社で働いて給料をもらって、楽しいことだけを求めて日々を生きているわけではないのです。
たくさんの感情を感じることが生きることです。
感情を感じることを当たり前だと思わないでほしい。
これは人に限らず、他の動物もそう。
動物にも感情がある。今朝食べたベーコンのお肉になっている豚だって、食べるために生まれてきたかもしれない。でも、その命があるから僕らは生きていけている。それに対して当たり前とは感じてほしくない。
養豚場で飼われる豚は一生を鉄格子の中で生きる。
その鉄格子のなかでもいろんなことを感じ、いろんなことを思う。
最期には涙を流し屠殺されていく。
彼らは人間をどのように思うだろうか?
きっと自由なことを羨むだろうなと思っています。
僕らは人間に生まれてきた以上自由に感じることができる。
自由に物事を選択することができる。
それが五体満足、健康体であれば尚更、倫理と自由を掴むことができる。
僕たちの手はパソコンのキーボードやスマホの画面を触るためにあるものではない。いろんなものを触れて感じるためにあるものだ。
僕たちの足は家から会社へ行くためにあるものではない。自由に大地を歩くためにあるものだ。
僕たちの耳は上司の説教や他人の悪口を聞くためにあるのではない。世界が日々動いている音を聞くためにあるものだ。
僕たちの目はSNSを見るためにあるのではない。自由と未来を見据えるためにあるものだ。
そして、僕たちの心は機械になるためにあるものではない。喜びや苦しみを感じ生きていることを感じるためにあるものだ。
日々を生きていることを「当たり前」ではなく「ありがとう」と思うことで真実の自由と倫理に近づくことができるのかもしれませんね。
なんかポエマーみたいになってしまってすいません・・・。笑
当たり前と思うよりありがとうと思った方が楽でしょ?
僕はそんな気持ちで残りの余生を生きてます。
今回も読んでいただきありがとうございましたー!
ほしむらまひろ
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